ビデオゲームは虚無なのか?
という大きな議題がある。
香川県がビデオゲームを1日1時間に規制した事からもわかる通り「ビデオゲームは虚無」というのはゲームを遊んだことが無い大人にとっての巨大な共通認識である。
レディ・プレイヤー1のエンディングが「現実を大事にしよう」というメッセージ性で終わるのも印象的だった。
実にスピルバーグらしい「大人」なメッセージだったと振り返って思う。
しかし僕たちは現実にビデオゲームから様々な事を学んでいる。
ストーリーであり、言葉であり、そういった概念が無いゲームでも、ビジュアル表現がテリングになる場合がある。
秋のシューティング祭 第7戦 斑鳩(IKARUGA)(NORMAL)
斑鳩はシューティングゲーム特有の「空間にユーザーを滞在させる」体験を通してユーザーに世界観を体感させる。
ユーザーを実際に滞在させることができるのはビデオゲームならではだ。
映画とは違う「真の同居」をプレイヤーに味合わせる事ができるメディア。それがゲームだと筆者は考える。
hotline miamiのようにローポリという手段を利用してゴア表現の先にあるリアルを想像させようとする高度な表現をするゲームもある。
更にhotline miamiの凄い所は、暴力描写を通してビデオゲーマーの持つ根源的な暴力衝動に対する批評にもなっている事である。
しかしこれを仮にビデオゲーム規制派の人間が見たら「暴力を肯定しているゲームだ!」と激怒する事だろう。
A Clockwork Orange , Official Trailer
時計じかけのオレンジも、元々は「暴力に対する批評」というテーマであったにもかかわらず、模倣犯が産まれ、暴力を肯定する映画だ!とボコボコに言われてしまった。
「暴力に対する批評的作品」と「露悪趣味の作品」の違いは批評家でなければ分からない。難しい所だ。
話はそれたが、ビデオゲームにはビデオゲームでしかなしえないストーリーテリングと、持ち帰れる何かが必ずある道楽である事には違いない。
しかしゲーム規制派の親御にとってはゲームはしょせん虚無なのだ。何も産まれない。何も残らない虚無のカスであり、それらを開発する大人は麻薬の密売人だとゲーム規制派の大人は考えている。
ゲーム規制派とゲーム肯定派の溝の原因というのは、そもそもこの「ビデオゲームは虚無か」という前提認識が違う所にあるのだ。
規制派と肯定派はこの前提認識が並行線上であるが故に、意見の対立という1歩目のステップすら踏み出せない。
僕たちゲーマーは、ただ規制派の連中を「わかってねえな」と思いながら眺める事しか出来ないのだ。
きっと香川県のゲーム規制法案は通るだろう。
なぜなら彼らはゲームの中でのストーリーテリング技術などわかっちゃいないし、気づいてすらもいないからである。
結局ビデオゲームが日本で出て30年。大人のゲームに対する軽視は一歩も進展しなかったという事である。
ゲーマーはしょせん理解されるマイノリティなのだ。
ならいっその事、理解してくる事を期待するのを諦めて、黙ってモニターに目を向けて、人生をゲームに捧げる生活に戻るべきなのだ。
というワケで、ゲーム規制で思った事でした。