ナイトクローラーの短評。filmarksのものをコピーして追記したものです。
現在のインターネットは衝撃的かつ刺激的な映像が覇権を握っている。
twitterで頻繁に我々は電車の中の精神病患者や、街中での暴力沙汰。暴力的な車の運転や事故を見るような生活をするようになった。
↑刺激的な映像と言ってピンと来ない人も居るだろうと思い動画を例として上げているが、見ないほうが良い。見るとしてもこの動画を見て生まれた負の感情を私は背負えない。という事をご了承頂きたい。
インターネットにおいて「憎悪」や「暴力」は最大級のエンターテイメントコンテンツまでのし上がった。youtubeにおいてはこういった動画は非常に力強い勢力を持っている。
こういった映像は、もうインターネットの中だけの存在じゃない。めざましテレビなどのニュース番組も、動物の虐待や危険運転をコンテンツの一部にしている。
でも、それを撮影している人間にも責任はあるんじゃないだろうか。
白日の下に真実を晒すという大義名分はあるが、それを見た人間の中に生まれた負の感情の責任を、それを撮影した人間は取れるのだろうか?
ナイトクローラーの主人公はただ無表情に現場にカメラを近づけて、それを「寓話的映像」として売りつける。そんな姿を見てしまうと、インターネット上に大量にある刺激的な映像も、この映画の主人公のルーのような「撮れ高が欲しい」という危険な好奇心によって撮られたモノが大半で、世の中を良くしたいなどと言った正しい思いなど一欠片もないのではと思ってしまう。
動画には常に「撮る人間」が居るという事。そして撮った人間が「インターネット上で公表する」という行動を取って始めて刺激的な動画は我々に届けられる。
でも、公表しないという選択もあったのでは?撮らないという選択肢は?
公表をして、それを見た人間の負の感情はどうなる?その負の感情の責任は誰に?負の感情だけでなく行動にも作用したらその責任はメディアには無いと果たして言えるのか?
今のメディアは「人間に負の感情を与えるのでは」という所に対してあまりにも無責任過ぎる。テレビはSNSを「デマゴギーの温床」と否定するが、テレビも結局インターネット上の刺激的なコンテンツをテレビ放映するのだから、同罪も良いところである。なぜテレビは自分はSNSより格上のメディアであると思い込めるのか不思議でならない。
「真実を白日の下に晒す」という大義名分で負の感情を与えるような暴力や死亡事故やレイプの事件を延々と流すテレビメディアのほうがタチが悪いと個人的には思っている。
朝のニュース。テレビでは「誰かが刺されて死んだ」だの「誰かが自殺した」だのそういった情報が延々と流れる。
私から言わせれば、起きたばかりの通勤通学の前に「人が死にました」と報道するメディアの謎さったら無い。「人が死にました。ところで次はエンタメです。」の理屈を本当にやってしまうテレビのニュースが私は本当に嫌いである。
人々は自殺のニュースや中東で35名が死んだだのと言った話を聴きながら「今日はどうしようか」なんて当日の予定を考えたりするワケだが、どうして「人が死んだ話を聴いたのに何も感じないのか」が不思議でならない。
泣き崩れもせず苦しい思いにもならず、テレビに対して愚鈍な感覚を持っていく。
テレビはまるで「他人の苦痛に鈍くなる心を植え付ける」訓練を市民にしているような。そんな感じがしてしまう
映画の中の音楽は、決してバッドエンド風の暗い音楽ではなく、まるで主人公のサクセスストーリーを祝うかのような少し明るめの音楽になっている。それは「今後もこういった刺激的な映像はメディアの覇権になっていくだろう」というメッセージに感じた。
僕はこの映画を見て以降、インターネット上にアップロードされている刺激的な映像の裏では、ただただ無表情にカメラを握り、それを寓話的にして世論を騒がたいルーの様な心が、撮影者の心の中に存在しているのだろうとインターネットで映像を見るたびに思うようになった。
我々が刺激的な情報に怒りを感じて騒ぎ立てたら、ルーの様な人間に「民衆の反響」というご褒美をあげるだけだ。
我々がメディアに対して冷静になれなければ、映画のようにルーがほくそ笑む世界になりつづける事は間違いない。それを考えてこの映画を見て欲しい。
ぜひ、メディアにコントロールされない心を持って欲しい。メディアにおいて、反応は憎悪であれ好感であれ最大の褒美なのだから。自分が嫌いだと思ったメディアから「リツイートする」ボタンを遠ざける勇気を持って欲しい。「この記事をツイートする」というボタンから手を離さなければ、そういった記事がなくならない事を。わかってほしい。
どうかメディアに対して冷静になれるような人間になろう。という話でした。
終わり