色々文章の勉強もかねて書く所

文章を上手く書けるようになりたいので、文章の練習に使っているブログです。2015年頃の初期の記事は適当な物も多いです!ごめんなさい!文章の練習にここを使わせてください!

1990年代後半の「狂ったビデオゲームとアニメたち」と2000年代に続く狂気の話

1990年代後半のビデオゲームとアニメは凄惨で神経衰弱の極みだった。

 

なぜ1990年代の人間が神経衰弱だったのかは正直な話わからない。

 

ただこの年代のビデオゲームやアニメにおける統合失調的神経状態は、後のビデオゲームに多大なる影響を今でも与え続けている。

 

劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]
 

 エヴァンゲリオンはその代表格で、この作品は特に「カタストロフィ(世界滅亡)に対するパラノイア」に満ち溢れている。

 

TVアニメシリーズにおける最終話を「自己言及の完結で物語を終わらせる」という所で済ませたにもかかわらず、旧劇場版でもう1度作者は陰惨な自己言及をする事になる。

 

それは映画に来た観客の映像を実写で見せ「お前ら気持ちわりいんだよ!」と見せつけたり、匿名掲示板の書き込みのカットが一瞬映っているようだったり。庵野秀明が世の中に対する嫌悪感をぶちまける掃き溜めとしての映画に半分なってしまっている。

 

正直ここまで観客に対して挑発行為を行ってしまっているのにあまりそういった点が指摘されないのはちょっと不思議に感じたりもする。

 

カタストロフィに対するパラノイアと、碇シンジという人間の自己言及性は、以後の作品に莫大な影響を与えてしまった。

 

DRAG ON DRAGOON

DRAG ON DRAGOON

 

 それが「カタストロフィ」を描く部分にインスパイアされたドラッグオンドラグーンである。

 

陰惨さもエヴァンゲリオンからリスペクトを受けているけれども、なんと言っても「エヴァの持つカタストロフィ描写」こそがエヴァンゲリオンから受けた最大のポイントだと思う。

 

 

L.S.D

L.S.D

 

 話は戻って、LSDというビデオゲームの話になる。

 

これはもう「統合失調的ビジュアル表現」に全てのステータスを振ってしまった作品であり、ビジュアル表現だけでゲームが完結している。もうゲームですら無い。

 

ただこのゲームの与えた影響は絶大に大きく、この「統合失調的ビジュアル表現」があるフリーゲームに派生する。

 

ゆめにっき

ゆめにっき

 

 それが「ゆめにっき」である。

 

この作品内で描かれるビジュアル表現も「統合失調的アーティスティック」に満ちている。

 

ここでいう「統合失調的アート」とは「圧倒的なフラクタルとサイケな色彩で形成されるアート」のことを指す。

 

それはルイス・ウェインの猫の絵を見ればわかるし、LSDのゲーム画面を見れば、圧倒的なサイケ的色彩とフラクタル的構図に圧倒されると思う。

 

他のサイトから画像を引用するのは少し気がひけるので「ルイス・ウェイン 猫」とか「LSD ゲーム」とかで検索をして頂きたい。

 

UNDERTALE - Switch (【永久封入特典】ストーリーブックレット 同梱)

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 そしてゆめにっきで描かれた神経衰弱性が海を超えて2010年代後半になって、toby foxという天才の作った「undertale」に再び顕現する。

 

まだ1990年代の神経衰弱が生み出した世界は他の作者にリレーのバトンを渡すように受け継がれ、今でも続けているワケである。

 

 

METALGEAR SOLID 2 SONS OF LIBERTY (コナミ殿堂セレクション)

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 話はまた戻る。

 

私が大好きな統合失調的ビデオゲームといえばなんと言ってもMGS2だろう。

 

このゲームの中の「JFK A.I(※)との対話」シーケンスで21世紀における「インターネットを中心としたモラリティの破綻」という現代にも痛烈に伝わる問題に対する言及を2001年というあまりにも早すぎる年に成し遂げてしまったことは、小島秀夫が時代の空気を読み取る天才だったことが大佐との無線だけで一発で理解できてしまう。

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※(JFKジョン・F・ケネディの略。メタルギアの搭載されていたAI、GWはジョージ・ワシントンの略。)

そうして大佐の無線を聴いた雷電は「自己言及の袋小路」に陥ってしまう。

 

ちなみにソリダス戦で飛び降り自殺をすると大佐が高笑いをするという乾いた笑いも出ない演出も用意されている。「自己言及の末に自殺した人間に待っているのは他人からの嘲笑」という事である。

 

本当にこの時の小島秀夫のメンタルは大丈夫だったんだろうか。

 

 

Killer7【CEROレーティング「Z」】

Killer7【CEROレーティング「Z」】

 

 そして2000年代初頭の狂気といえばなんと言ってもkiller7である。

 

ヘブンスマイルの持つ「触れると自爆する」というのは、もちろん自爆テロリズムの恐怖の象徴あり、テロリズムの定義は「政治的破壊行為」ではなく「個人に対する突然の暴力行為である」と定義するという行為を2005年に成し遂げている傑作である。

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2000年代の頃はテロリズムの定義には「社会的思想が暴力に伴っている事」であったが、ヘブンスマイルはイデオロギーなど関係なく襲ってくる。

 

調和を乱す突然の暴力が、安心だと思っていた他人から突然襲いかかってくる」という恐怖こそが、ヘブンスマイルの正体であり、それは秋葉原通り魔や相模原障碍者殺人事件。そして海外での銃乱射事件にも繋がってくる。

 

テロリズムに対するパラノイアを2000年代初頭に言い当てた須田51は間違いなく天才だろう。

 

 

 そして2000年代初頭の神経衰弱に乗っかったアーティストとして、やはりZUN氏は外せないと思う。

 

彼の作品。東方紅魔郷と蓬莱人形は、完全に統合失調的パラノイアに陥っている。

 

ポップな作風とは対象的に、彼の初期作品は統合失調的で、完全に神経衰弱の域に至っている。

 

東方鈴奈庵に「カタストロフィのパラノイアに心を支配される男性」が描かれているのも、まあ「そういうこと」だろう。

 

週刊少年「」というテレビ番組で藤子不二雄Aが「笑うセールスマンに出てくる被害者のモデルは全部自分自身」と言っていたように、あのパラノイアに飲まれる男性は彼自信だと、勝手に僕は解釈している。

 

なぜ1990年代~2000年代初頭が、時代の空気に敏感な人間にとってハードコアな時代だったのか?」1993年生まれの僕は想像するかないのだけれど、1990年代~2000年代にかけて「統合失調的状態こそ芸術の行き着く到達点だ」という空気が当時の芸術家達にあったのではないだろうか。

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音楽の話にはなるが、ジャパノイズの存在もそれを確信づける証拠の一つだと個人的には思っている。ジャパノイズの統合失調表現もそうだけれども、ミニマル・テクノのような音楽も統合失調的表現に貢献をしていた。

 

SILENT HILL2 original sound tracks

SILENT HILL2 original sound tracks

 

 そしてやはり2000年代初頭ゲーム音楽において、最も統合失調的だった音楽家こそが、AKIRA YAMAOKAだろう。

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彼の持つサウンドは極めてポップであると同時に、神経衰弱と統合失調の極みであることは、彼のアルバムのiFUTURELISTを聴けばすぐにわかる。

 

彼のミニマル・テクノは陰惨で非常に神経衰弱的、そしてサイレントヒルにおける「病院マップ」のビジュアルが、いかに統合失調的であったかは言うまでもない。

 

特に初代サイレントヒルサウンドトラックはAKIRA YAMAOKA本人いわく「最初から最後まで聴き通すのはかなり厳しい」とまで言わせる出来になっている。勇気がある方はぜひ初代サイレントヒルサウンドトラックを1トラックから最後まで完走する挑戦にチャレンジして欲しい。僕は絶対に無理である。

 

90キロから45キロまで激ヤセした(確かiFUTURELISTの特別サイトにそういう記述があった)と証言するように、彼もまた2000年代の神経衰弱界を代表するアーティストだと思う。

 

 他にも1990年代の狂気じみたプレステのゲームがタイムワープしたのでは?としか思えないhotline miamiというビデオゲームの存在だったり、明らかに1990年代の陰惨な空気に影響を受けている少女終末旅行だったり、MOTHER2って最初に統合失調的アートをゲームに出した作品だよねとか色々話はあるけれど、書くのがしんどいのでこの辺で終わりにする。

 

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今日見つけた曲だけど、頭おかしくて結構好き。1980年代もクローネンバーグだったりデビッド・リンチだったりなんだかんだで頭おかしいですね。

 

何が言いたいかっていうと、1990年代~2000年代初頭の陰惨な空気はやっぱり最高だし、みんなも1回この時代の頭おかしい作品は触れておいて損はないよって事です。

 

先月に重いうつ病になったkaiyareでした。

 

終わり。

ジョン・ケージの4分33秒の演奏者を色々比較しながら「音楽はいつ成立するのか」について考える

ジョン・ケージの楽曲に「4分33秒」なるものがある。

 

4分33秒間、人間が「音楽を発生させないように沈黙を保つ」という形でこの音楽は演奏されている。

 

ここでは、youtubeに投稿されている様々な4分33秒を聴いて、演奏者ごとの違いを色々考えようと思う。

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・演奏者「水溜りボンド」氏の4分33秒

 

全体的にはマイクに入っている「スー」というノイズ音が印象的、服の擦れる音や、かすかに聞こえる2人組の息遣いも良い音楽表現になっている。

 

自宅ではなくどこかの施設の部屋で録音しているのか、空調の音もわずかに聞こえる。

 

4分33秒の中では「生活の空気の音」を堪能できる、聞きやすい音楽に仕上がっていると感じる。

 

初心者にオススメですね。

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オーケストラで4分33秒を再現しようとしたもの。

 

観客がこらえきれずに咳をしたり、その咳が他人にもあくびの様に伝染してしまい、咳の音が多くなるパートはビート感があって音楽的要素が強い。

 

ちょうど曲の初めに「ゴホンゴホン・・・」という咳が鳴るのだが、これがどんどん周りに伝染していくところは音楽的ダイナミズムを感じてしまう。

 

また、赤子の声がときおり聞こえるが、赤子の声の高音が絶妙に音楽的な響きを醸し出している。

 

空気の音は「サーー・・・」という弱めのノイズ系、ちょうどアナログテレビのノイズ音を静音的にしたような音になっている。

 

全体的には赤子の高音と咳のコンビネーションもあって濃い口な印象。

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ロックバンドの4分33秒

 

まず、マイクに乗っている「ザー」というノイズ音。これがまずかなりの高音で、流石はロックバンドだなぁと感心してしまう。

 

しかし、他の4分33秒に比べると、ザーというノイズ以外はあまり音がなっていない。個人的には薄口に感じてしまった。

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やはり、オーケストラ会場の4分33秒は、音が反響しやすい環境である事もあってか、4分33秒との親和性が高く感じる。

 

この4分33秒は演奏者が沈黙を心がけているので、あまり音は発生していないが、オーケストラの観客席の足音などが非常に打楽器的で聴いていて気持ちいい。

 

マイクの空気の音は「ガー」という感じの、高めだけど音量は少なめ、もっとノイズっぽいほうが僕は好きかな。と感じてしまう。

 

鼻をすする音とか、靴で床を歩く音であるとか。オーケストラ系の4分33秒は「観客が沈黙を保つことに失敗し音楽が成立してしまう」事がかなり多い。

 

でも、ジョン・ケージ4分33秒が伝えたい事は「沈黙を保つことの難しさ」と「音が生まれた瞬間にそこに音楽は成立してしまう」という所なので、オーケストラはやっぱり4分33秒に向いている演奏会場なんじゃないかなぁ。なんて。

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この4分33秒は中々良いんじゃないでしょうか。

 

まずマイクの空気の音。かなりノイジーですよね。洗濯機のランドリーの音の様な「ゴー」という音、かなり音楽的だと感じます。

 

何かがカタカタ揺れている音も聴いていてリズミカルで良いですね。

 

演奏者が沈黙を成立させようとしても、周りの環境が沈黙を破ってしまう。それは電化製品の鳴らす一定の「ゴー」という空気の音だったり。

 

完全で完璧な無音でとしての沈黙状態」を発生させるがいかに現実世界に発生させる事が難しいか。音が発生した時点で音楽は成立してしまうだろうとジョン・ケージは言いたかったんですね。

 

 

https://itunes.apple.com/ca/album/433/406490689?at=10l8JW&ct=hatenablog

 実はジョン・ケージ4分33秒にはmp3版が存在するが、僕は正直デジタル音楽版は好きにはなれない。

 

なんてったって完全な無音だからである。ジョン・ケージの4'33はあくまで「沈黙を作り出すことの難しさ」に焦点を当てているし、沈黙という状態の成立に失敗した時にどんな音楽状態が発生したのか。という所含めて4'33は音楽として完成するんじゃないかな。と思ってしまうワケである。

 

そういう意味ではこのiTunes版4'33は駄作としか言えない。「完全な無音」という現実で成立させるのが非常に難しい状態を、デジタル信号を0にすることでアッサリ実現できてしまったからだ。

 

~終わりに~

ジョン・ケージが何を言いたかったかっていうと「音楽と音楽じゃないもの、その音の違いとは何だ?」という所だし、更に言ってしまうと「音があれば、もうそれは音楽として成立してしまうだろう」という事。

 

音と音楽の境界線はそもそも存在せず、音自体が一種の音楽性を秘めている以上、音が出ていればそれはもう音楽が演奏されている状態と同一だろうと言いたかったワケですね。

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彼の「water walk」にはそのメッセージ性がものすごく詰まっていて「生活の音だけで音楽は成立する」という主張を明確にするために、ピアノ以外は生活の道具だけを利用して彼は音楽を成立させようとします。

 

そこにコード進行やメロディ、あるいはエイトビートといったリズムが無くても、音が発生した時点で音楽は成立している。それがジョン・ケージの主張なワケです。

 

これで自然の音に興味を持った方はぜひ、自宅で耳をすませてみてはいかがでしょうか。

 

炊飯器や電子レンジの音に意識を向ける。意識を研ぎ澄ませればきっと洗濯機の稼働音にも「ああ、洗濯機の音はこの高さなんだ」と感じ、生活の中にも音楽的要素を見つけられると思います。

 

というワケで4分33秒のレビューと「音楽が成立するという定義について」の話でした。

 

終わり。

 

 

 

 

ゲド戦記はメンヘラ死にたがりのアレンが恐怖を克服する成長物語として凄く面白い映画だよっていう話

ゲド戦記。めっちゃ面白い映画ですよね。

 えっ?普通に面白くない?まあこの記事を読んでから色々考えてくれよ。

そんなゲド戦記の面白さについて考えようと思います。

 

このゲド戦記に出てくるアレンは父親を刺し殺し、浮浪していた所を狼に殺されそうになります。

 

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「お前たちが僕の死か」と言い、死の覚悟を決めようとするアレン。

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死を受け入れようとするアレン・・・だけど・・・

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でも噛まれる直前になってこの顔になるワケですよ。

 

「えっ待って!?死のうとか思ってたけど死ぬのメッチャ怖くなってきた!」って顔ですよね。

 

これってまさに「死にたがり系メンヘラあるある」で、死にたがりなのに死の間際になってめっちゃ怖くなっちゃう感じが出てて凄く好きなシーンなんですよね。

 

そんな死にたがりメンヘラなのに死ぬのが怖いメンヘラなアレンが生きる希望を手に入れる映画として、この映画が傑作である事について考えてみます。

 

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ちなみにその後アレンを助けた時・・・

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「なんで殺させてくんねえんだよっ!」みたいな顔されます。

 

死にたいのか死にたくないのかめんどくさい事極まりないメンヘラちゃんなアレン。でもそれがいい。

 

話は飛んで

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序盤の中頃。テルーが男達に襲われるシーン。

 

「その顔じゃ 商品にはならないな、商品にはならないが、ちょっと かわいがってやるか」

 

ここ、テルーをレイプする間際のシーンです。

 

直前で止められたとはいえ「ジブリ作品でレイプ寸前のやりとりがされる」というのは中々無いですよね。

 

こういった所が「攻めた作品にしよう」という宮崎吾朗兄貴の気持ちが見て取れますよね。

 

ゲド戦記は作品としては割とポップに落ち着いた作品になってますが、クモの顔のシーンしかり「ダークファンタジージブリ作品でやりたい」という願望がゴローちゃんにはあったと思うし、その心意気だけで「ゴローちゃん凄いよ!」と思っちゃいます。

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テルーを襲っていた男達に絡まれアレンは男に「命乞いしてみろ」と挑発されます。

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その言葉が死にたがり系メンヘラのアレンの逆鱗に触れた!

 

この様に映画序盤のアレンは「命」に対して非常にニヒルな感情を抱いていて、命というものなどバカバカしいという価値観を持っている事がわかりますね。

 

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テルーの命がかかっていても・・・

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こういう事を言っちゃう。要するに「他人の命も自分の命も大事にしてない人間」なワケですよ。

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そんなんだからテルーも助けられてもこの顔ですよ。「もっと命大事にしろよ!」ってご立腹。

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んでもって「命を大事にしないやつなんか大嫌いだ」って言われちゃう。

 

公開当時は「希薄なセリフだ」なんて酷評されたけれども、この「命を大事に~」の下りは観客に向けたメッセージなのではなく、アレンに向けたメッセージなんですね。

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話は飛んで名高いテルーの歌唱シーン。

 

結構これが長いんですよね。ウチの親なんか「いきなり歌うの?」とか言ってました。

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これを聴いてアレンは泣いちゃうワケですよね。

 

これ「宮崎吾朗自身がこの唄を聴いてボロ泣きした」って事だと思うんですよ。

 

歌を歌うシーンが凄く長い理由も、アレンが涙を流す理由も「アレンは宮崎吾朗だから」っていう理由が一番適切だと思うんですよね。

 

えっ?つまり宮崎吾朗って死にたがりメンヘラちゃんだったの?

 

多分そうなんですよ。

 

だからこの映画は凄いんですよね。僕には宮崎吾朗っていう映画監督が庵野秀明に見えてしまうし、アレンはエヴァンゲリオン碇シンジに感じてしまう。

 

宮崎吾朗、お前ここまで精神病んでたのかよ・・・」っていう所にものすごくグッと来てしまう。

 

そしてアレンは自分の心の闇にも惑わされます。

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まあメンヘラさんならわかると思うけど「めっちゃ死にたい気持ち」って突然襲ってくるものじゃないですか。それのメタファーですよね。

 

夜に突然死にたくなる負の感情の塊を「もう一人の自分」で表現したワケですね。

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ちなみに映画序盤の街で風が吹いてアレンが逃げるシーンがありますけど、これはもう一人の自分から逃げていたんですね。

 

 

そしていよいよゲド戦記の名シーンですよ。f:id:kaiyaren:20181030003237j:plain

「ぼくは永遠の生命を手に入れるんだ

 ずっと不安でいるなんて嫌だ」

 

「不死は生を失うことだ

 死を拒絶することは

 生を拒絶することなんだぞ!」

「そんなの嘘だ!」

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「聞きなさい

 この世に永遠に生き続けるものなど

 ありはしないのだ

 自分がいつか死ぬことを

 知ってるということは

 我々が天から授かった―

 素晴らしい贈り物なのだよ

 わしらが持っているものは

 いずれ失わなければ

 ならないものばかりだ

 苦しみの種であり 宝物であり

 天からの慈悲でもある

 わしらの命も」

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ここ、毎回号泣しちゃうんですよね。

 

ここまで死にたくないという気持ちをこじらせていた宮崎吾朗に対する同情心でもあったり、そんな宮崎吾朗が「死ぬという事を知っているというのは、終わりを知っているという事はとても素晴らしい事なんだよ」と言ってくれた事。

 

「死の恐怖に我々はどうすればいいか?それは死を大切に思うことなんだ」

 

色々な映画を見てきているけれど、この主張は映画史に残ると今でも思う。

 

死にたくない人間に、ここまで誠実なメッセージを送り届けてくれた事。ただただその事に対する感謝で心が満たされるし、号泣してしまう。

 

ありがとう宮崎吾朗。あんたの意志は俺が受け取ったよ!ってなっちゃう。

 

終盤のテルーとの会話。

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「大切なものって何だろう?

 大切なのは命に決まってる

 人はいつか死んでしまうのに

 命を大切にできるのかな

 終わりが来ることが わかっていても

 それでも―

 生きていくしかないのかな?」

 

「違う! 死ぬことがわかっているから

 命は大切なんだ

 アレンが怖がってるのは

 死ぬことではないわ

 生きることを怖がっているのよ

 死んでもいいとか

 永遠に死にたくないとか

 そんなの どっちでも同じだわ

 一つしかない命を生きるのが

 怖いだけよ!」

 

「命は自分だけのもの?

 あたしはテナーに生かされた

 だから生きないといけない

 生きて次の誰かに命を引き継ぐんだわ」

 

このセリフで、いかに宮崎吾朗が「死」という概念と誠実に向き合ってきたかがわかるし、それだけでも感動してしまう。

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ほかの人が他者であることを忘れ

自分が生かされていることを

忘れているんだ!

死を拒んで生を手放そうとしているんだ

目を覚ませ クモ

怖いのは皆 同じなんだ!

 

死にたがりのメンヘラちゃんが映画の最後にはこんな事言っちゃうまで成長しちゃう。

 

アレンという主人公の成長物語として普通に感動できる作りになっているワケですね。

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そして最後には龍であるテルーと和解するワケですね。

 

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太古 人間と竜は一つであった

しかし ものを欲した人間は

大地と海を選び

自由を欲した竜は風と火を選んだ

以来 人間と竜は交わることはなかった

 

今まで人間と竜は交わる事が無い種族だったのが、アレンは交わることが無かった竜と和解する事に成功し、「世界の均衡を取り戻す」という映画の目標の第一歩を踏み出した所で物語がエンディングに入るワケですね。

 

こうやって見るとゲド戦記。凄く面白くないですか?

えっ?なんでテルーは竜なの?って?うん・・・まあ・・・それは・・・

 

少なくとも僕はとても感動できる完成度の高い作品だと感じました。

 

宮崎駿さんはこの映画を見て「気持ちで映画を作っちゃいけない」と酷評しました。

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でも僕は気持ちで映画を作っても良いと思う。

 

実際ゲド戦記は大衆の評価は散々だったけれど、僕の心には間違いなく響いた。

 

僕以外の人間にも「ゲド戦記面白い!」と言ってる人はたくさんいる。

 

気持ちで作品を作ったら、大衆にはウケないし評価は散々になるのかもしれない。

 

それでも「気持ちで作った作品でも想いは届くぞ!」という所は声を大にして言いたいんですよ。

 

 

ゲド戦記 [Blu-ray]

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 というワケでゲド戦記評でした。正直。BD欲しい・・・

 

皆さんもゲド戦記。アレンの成長物語として見てみて下さい。とても面白いので・・・

 

ここまでは書かなかったけど色彩が鮮やかじゃなかったり、レイアウトが単調だったり(この辺はパヤオが天才すぎるからしょうがない)作品が前に進む感じが全くしていなかったり、アクション作画にもう一歩欲しい所があったり、劇伴が明らかにミスマッチだったりする死ぬほど欠点もあるけどね。それでも面白いんですよ・・・

 

 

 

 

mare nectarisハードできたので、800文字ぐらい適当に書く

 

はい。mare nectaris攻略完了です。

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自分でやってる動画なんだけど、正直自分でも何叩いてるのかよくわかんないで無心で叩いたら抜けれた感じです。

 

箇条書きで適当に思ったことを書く。

・mareに似た譜面はBMSにも中々無いのでmareの練習はmare。mareをやって「譜面を覚える」のが大事。譜面を体で覚えると強い。

BMSの中で強いていうならETERNAL DRAIN(DELAY MASTER)がオススメ。BMSの環境があるならエターナルドレインイージー付いてからやると良い。

・地力で上から殴るなら発狂十段は欲しい。発狂九段でも戦えるけど長めの粘着になると思う。

・餡蜜が凄く有効打。餡蜜で抜けるのも大事だし、曲のBPMが早いって事は「ごまかしやすい」という事に直結している事を覚えること。自分なりのごまかし方を見つけよう。

・正規は餡蜜しやすく当たりの部類だけど、癖にだけは気をつける事。癖が付いたら当たりの少ない乱ノック一択になる。地獄

・地力を上げて上から殴るという意味でも、ディレイに強くなる意味でも、BMSがやっぱり欲しい。本家だけだと相当厳しいと思う。SP攻略にグングニルが練習曲として挙げられて居るけど全くグングニルは練習にならない。

・筋トレはしておこう。1日15回は全力で叩ける体力が無いと厳しいし、mareをやるともう他の曲が叩けなくなる事もザラ。

・とにかく認識難なので「見えなくても指を動かし続ける」のが大事。見えない時に指が止まってしまう人はもう「叩きすぎても良い」ぐらいの気持ちで叩きまくる事。

・ハード粘着スタートラインはディレイが得意なら未難一桁から。ディレイが苦手ならきっちり最後まで残る。

BMSなら発狂九段取得辺りがハードラインだと思う。正規に癖が付く前にとにかくケリを付けて欲しい。じゃないと地獄の乱ノックで腱鞘炎コースになる。

 

以上。みんなも頑張ってね。

映画ナイトクローラーを通じてメディアに対する不信感を考える。

ナイトクローラーの短評。filmarksのものをコピーして追記したものです。

 

現在のインターネットは衝撃的かつ刺激的な映像が覇権を握っている。

twitterで頻繁に我々は電車の中の精神病患者や、街中での暴力沙汰。暴力的な車の運転や事故を見るような生活をするようになった。

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↑刺激的な映像と言ってピンと来ない人も居るだろうと思い動画を例として上げているが、見ないほうが良い。見るとしてもこの動画を見て生まれた負の感情を私は背負えない。という事をご了承頂きたい。

 

インターネットにおいて「憎悪」や「暴力」は最大級のエンターテイメントコンテンツまでのし上がった。youtubeにおいてはこういった動画は非常に力強い勢力を持っている。

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こういった映像は、もうインターネットの中だけの存在じゃない。めざましテレビなどのニュース番組も、動物の虐待や危険運転をコンテンツの一部にしている。

でも、それを撮影している人間にも責任はあるんじゃないだろうか。

白日の下に真実を晒すという大義名分はあるが、それを見た人間の中に生まれた負の感情の責任を、それを撮影した人間は取れるのだろうか?



ナイトクローラーの主人公はただ無表情に現場にカメラを近づけて、それを「寓話的映像」として売りつける。そんな姿を見てしまうと、インターネット上に大量にある刺激的な映像も、この映画の主人公のルーのような「撮れ高が欲しい」という危険な好奇心によって撮られたモノが大半で、世の中を良くしたいなどと言った正しい思いなど一欠片もないのではと思ってしまう。

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動画には常に「撮る人間」が居るという事。そして撮った人間が「インターネット上で公表する」という行動を取って始めて刺激的な動画は我々に届けられる。

 

でも、公表しないという選択もあったのでは?撮らないという選択肢は?

 

公表をして、それを見た人間の負の感情はどうなる?その負の感情の責任は誰に?負の感情だけでなく行動にも作用したらその責任はメディアには無いと果たして言えるのか?

 

今のメディアは「人間に負の感情を与えるのでは」という所に対してあまりにも無責任過ぎる。テレビはSNSを「デマゴギーの温床」と否定するが、テレビも結局インターネット上の刺激的なコンテンツをテレビ放映するのだから、同罪も良いところである。なぜテレビは自分はSNSより格上のメディアであると思い込めるのか不思議でならない。

 

「真実を白日の下に晒す」という大義名分で負の感情を与えるような暴力や死亡事故やレイプの事件を延々と流すテレビメディアのほうがタチが悪いと個人的には思っている。

 

朝のニュース。テレビでは「誰かが刺されて死んだ」だの「誰かが自殺した」だのそういった情報が延々と流れる。

 

私から言わせれば、起きたばかりの通勤通学の前に「人が死にました」と報道するメディアの謎さったら無い。「人が死にました。ところで次はエンタメです。」の理屈を本当にやってしまうテレビのニュースが私は本当に嫌いである。

 

人々は自殺のニュースや中東で35名が死んだだのと言った話を聴きながら「今日はどうしようか」なんて当日の予定を考えたりするワケだが、どうして「人が死んだ話を聴いたのに何も感じないのか」が不思議でならない。

 

泣き崩れもせず苦しい思いにもならず、テレビに対して愚鈍な感覚を持っていく。

 

テレビはまるで「他人の苦痛に鈍くなる心を植え付ける」訓練を市民にしているような。そんな感じがしてしまう

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映画の中の音楽は、決してバッドエンド風の暗い音楽ではなく、まるで主人公のサクセスストーリーを祝うかのような少し明るめの音楽になっている。それは「今後もこういった刺激的な映像はメディアの覇権になっていくだろう」というメッセージに感じた。

僕はこの映画を見て以降、インターネット上にアップロードされている刺激的な映像の裏では、ただただ無表情にカメラを握り、それを寓話的にして世論を騒がたいルーの様な心が、撮影者の心の中に存在しているのだろうとインターネットで映像を見るたびに思うようになった。

我々が刺激的な情報に怒りを感じて騒ぎ立てたら、ルーの様な人間に「民衆の反響」というご褒美をあげるだけだ。

我々がメディアに対して冷静になれなければ、映画のようにルーがほくそ笑む世界になりつづける事は間違いない。それを考えてこの映画を見て欲しい。

 

ぜひ、メディアにコントロールされない心を持って欲しい。メディアにおいて、反応は憎悪であれ好感であれ最大の褒美なのだから。自分が嫌いだと思ったメディアから「リツイートする」ボタンを遠ざける勇気を持って欲しい。「この記事をツイートする」というボタンから手を離さなければ、そういった記事がなくならない事を。わかってほしい。

 

どうかメディアに対して冷静になれるような人間になろう。という話でした。

 

終わり

セイキンTVを恐らく1145本程見ていると思う僕のセイキンの好きな所を考える

どうも。

 

セイキンTVの動画が大好きで、最近はあまり見なくなってしまいましたが一時期は毎日見ていました。

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この頃が2014年の8月で

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この動画が2017年10月のものなので、毎日投稿を必ず見ているとすると、1145本以上はセイキンの動画を見ている事が確定しているので(まあそれよりも少ないかもしれないけど)僕はそこそこのセイキン好きって所ですね。

 

まあ今でも2本に1本は見てたりしてますが・・・

 

「セイキンのどこが面白いのか」っていうのは難しいですよね・・・

 

でもやっぱり僕は「彼のコンテンツには悪意が無いし不快にならない」って所がやっぱり良いと思うんですよ。(えっ?顔が不快?オイオイそれはヘイトスピーチだぜ)

 

例えば他のyoutuberやゴールデンタイムの番組って「刺激的」なコンテンツで視聴率や再生数を狙っていくワケですよ。性的だったり暴力を振るったり。再生数と刺激性は切っても切れない関係性なワケですね。

 

でもセイキンにはそれが無い。「他人が嫌い」とか「性的なコンテンツ」とか憎悪に関するコンテンツが徹底的に無いんですよ。とにかく健康的な映像が流れてくる。

 

これはインターネットにおいて珍しい事ですよね。もう他人の注目を浴びるには挑発を一度せざるを得ないというインターネット業界において、毒の無いコンテンツを貫き通すこの姿勢。これこそがセイキンの素晴らしさだと思うんですよ。

 

もちろんそれは「セイキンは虚無」という論説がインターネットに流れる原因も産んじゃったし、実際セイキンの動画は果てしなく虚無である。

 

謎の20代の男が一生買わないタカラトミーのおもちゃやvat19(海外のおもちゃメーカー)のグッズを紹介する動画。

 

そしてなんと言ってもセイキンの代名詞とも言える焼き肉、ポップコーン、そうめんスライダー、揚げ物、回転寿司。などの調理動画。

 

同じ企画、同じようなコンセプトのおもちゃ。ハンドスピナーを同じように紹介するセイキンの動画は、間違いなく繰り返しが限界に来た後期や末期のものに関しては虚無である。

 

まあイメージとしてはつまんないのにダラダラ続編が作られるアクション映画やホラー映画のようなもんだと思ってくれるとだいたいあっている。なんとなく見ちゃう。

 

でも「虚無」だからこそ良いんじゃないだろうか。確かにセイキンTVを見ても何も人生に進歩などない。でもインターネットには挑発的なコンテンツや悪意の充満した場所だらけ。悪意の無い場所を探す方が難しい。

 

だからこそセイキンのような、とにかく「安心して見れるし見せられる」動画がやっぱり良いんだと思う。セイキンは虚無だけど、悪意は無い、悪意が無いコンテンツ自体が、インターネットにおいてマイノリティであるが故に、セイキンはなんだかんだで受け入れられたんだと思う。

 

そしてセイキンTVはそもそも動画自体の内容が虚無じみているので、動画を理解する必要が無いというのも良い。本当にボーッとしながら見れるし、歯磨きしながらセイキンの動画を見る生活を1年続けたけれど、セリフが聞き取れなかったとしても全く気にならない。セイキンの動画はたいした事は言わないし、聞き逃しても大丈夫だからである。

 

セイキンTVが他のyoutuberに比べて伸び悩んでいるという情報も見かけている。

 

でも実際仕方ないと思う。そもそもおもちゃレポや焼き鳥や焼き肉パーティだのといった企画自体が時代遅れになった印象がある。メントスコーラで笑う人などもういないし、スライム風呂も時代遅れになった。きっと料理や揚げ物も時代遅れのカテゴリに入ってしまったんだろう。

 

セイキン動画の企画コンセプトである「おもちゃと調理」という2つのコンセプト自体が、もう昔の動画で供給が済んでいて新しい動画を作る理由があんまりない事も関係している。まあ単純に言えばネタ切れである。

 

それでもやっぱり僕はセイキンは今のスタンスを貫いて欲しい気持ちがある。絶対に買わないようなおもちゃを紹介して「買わね~!」と思いながらインターネットでボーッとしたいのだ。

 

そう。インターネットでボーッとしたい人間にとって、セイキンは最も優れたコンテンツと言える。

 

みんなインターネットに刺激性とか意味とか、とにかくみんな真面目にインターネットしすぎなのである。

 

少なくとも僕はインターネットってのはボーッとするコンテンツだと思っている。

 

だからこそセイキンが愛おしくなってしまって、セイキンを見ながらボーッとするあの時間を求めてしまうのかもしれない。

 

つまりセイキンは日常アニメだった・・・!?

 

とにかく、セイキンの動画はとにかく味がしないし「え?終わり?タイトル以上の事が何も起きてないような・・・」(この、タイトル以上の事が絶対に起こらないというのもセイキンの動画の安心感に直結してくるのだけれども)となっても仕方ない気がする。

 

でも、セイキンは良い。このヒステリーとニヒリズムと悪意と憎悪溢れるインターネットで、ただただ安心できるコンテンツ。それがセイキンTVなのである。

 

もし隕石が地球に落ちたとしても「お!隕石ですね。この隕石は人類を滅ぼすのにちょうど良いサイズですね。」ってコメントしてくれそうな安心感がある。セイキンは。

 

そんな安心と虚無のコンテンツ。セイキンTV。興味があったら見てはいかがだろうか。

 

終わり。眠いので寝ます。

 

ちなみに好きなセイキンは天然石ステーキです。

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本当の終わり。

アニメの「作画」の良し悪しと、アニメで作画を見る時に色々気をつけたい事

最近twitterSNSで「このアニメの作画すげえよ!」って言うと、作画オタクさんが「このカットの作画が凄いとは思いません、なぜなら・・・」といった議論が行われて、「良い作画って何だよ」という議論が前よりもホットな話題になった印象があります。

 

結局良い作画のアニメを評価するためには、我々観客自身が作画というものに対する教養を身に着けて我々観客の「作画を見る目」をレベルを上げていくしかないワケで、アニメを見るみなさんもぜひ「作画を見る目」は付けて頂きたいワケですね。

 

どれだけ凄い芸術があったとしても、それを見る側に教養が無ければ芸術は成立しません。優れた芸術は「観客の見る力に依存している」とも言えます。

 

複雑な小説は読解力が無ければいけませんし、プロットの説明が遠回しな映画は観客がそれを「察する」事でようやく成立します。

 

芸術は貴方が思っているよりも「見る側に依存している」のです。

 

我々観客が、正しく芸術を見る教養を身に着けていかないと、評価されるべき芸術も評価されないワケですから、芸術に対する教養をみんなで付けようって話です。

 

説教っぽくなってしまいました。

凄く話がそれましたが、要するに私達観客が作画について真剣に考える事は、すごく大事って事です。作品の良し悪しを決めるのが我々観客であるが故にです。

 

というワケでアニメを見る時の作画について色々考えようって話です。

 

僕も作画wikiにあるアニメ映画を50本ぐらい見たり作画wiki作画アニメシリーズを20個程漁った程度なので、そのぐらいの人が作画について考えていると思って下さい。

 

そこまで作オタこじらせてない25歳の話って事でよろしく。

 

・「作画が良い」ってどういうこと?

どういうことなんでしょうね。

・・・で終わってはいけないので考える。

 

まず、作画枚数が挙げられますね。でも、作画枚数だけで採点するワケにはいけません。

 

具体的にはこの様なものが「作画の良さ」を定義する時に指針になる部分です。

・作画枚数はあるか

・1カットでどれだけ複雑な動きをしているか

・カメラアングルや動きから来る「書く難易度」は高いか

・そのカットの心象にあった表現が出来ているか

 

これが原画の難易度で、これに背景美術の複雑さを足し算したものが「作画の凄さ」だと思います(多分)

 

・例を見て色々言ってみる

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バトルシーンの作画は「1カットでどれだけ動いているか」「カメラアングルがどれだけ難しい位置にあるか」と作画の線の「ストレッチ感」伸びたり縮んだりする躍動感がアニメーションとしてちゃんと表現できているかが試されますね。

 

初心者さんは「どれだけヌルヌル動いているか」に気を取られがちですが、カメラアングルの難しさや動きのストレッチ的躍動感と1カットでどれだけ複雑な動きをしているかも大事ですよね。

 

この動き、絵コンテから出力するのどれくらい難しいんだろう」とか「このカメラアングルでキャラをこう動かすのってどれくらい難しいんだ?」について考えるともっと作画に対する洞察力が上がると思います。

 

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これは凄いですけど「背景が3D」って事で結構減点する人が多いですよね。

 

わかんない人に説明すると、背景動画ってのは背景もアニメーターが書くシーンの事です。

 

背景も動くことでそのカットが持つドラッギー性を高める効果があるんですね。

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湯浅政明のヘンダーランドの追いかけっこが有名ですよね。実際湯浅政明の背景動画はとことんドラッギーでアーティスティック。凄いんですよ。

 

進撃の巨人は背景が3Dだからそんなに凄いことは無くないですか」って意見もあるけど、僕は進撃の巨人の3D作画シーンも良いと思います。

 

もちろん背景動画であることに越したことはないけれど、ホーホケキョとなりの山田くんがどれだけ死ぬほどヤバいアニメだったかは創造を絶するワケで。

 

※ホーホケキョとなりの山田くん高畑勲が作画にこだわりすぎたせいで完全にスタジオが疲労でぶっ壊れた映画。これもボブスレーとか「マジ!?このシーンでここまでやる!?」ってなる映画なのでオススメ

 

そんな「コスパ重視な背景動画」としての3D背景動画ってのもこれはこれで良いじゃないって個人的には思います。

 

・背景美術も見てみよう

背景美術もその作品の世界観を決めるとても重要な部分です。

 

「君の名は」で、写実系の背景美術にハマった人も多いと思います。背景美術は実際強力です。それだけで世界観が1発で決まります。

 

例えば、ジブリの映画は必ず「風景を見せるシーン」が流れて、そこに久石譲の音楽がグワっと流れて、エモーショナルになるワケですね。天空の城ラピュタラピュタ城上陸シーンとか。

 

背景美術の評価する上で大事なのは、綺麗かどうか、とかではなく「世界観の表現に成功しているか」が大事です。

 

どんな背景美術の塗り、線の質感なのかで「どんな世界観にしたいのか」がわかってしまう。それぐらい背景美術は情報量が凄いんですよね。

 

最近はコスパのために3D背景も多いですが、やっぱり背景は世界観の決め手ですので、2Dが良いですね~。

 

「作画に集中してアニメを見るぞ!」ってなるとつい原画につい気を取られて背景美術に目が行かない事も多いですが、背景美術も凄く大事な要素です。見落とさないように。

 

作画初心者にオススメのアニメ映画

AKIRA(アニメーターオールスターな大傑作。いわゆるマイルストーン

イノセンス(リアル系アニメーターの集大成。リアル系初見にぜひ)

ジブリ全般(ジブリはやっぱり見てて気持ちいいし、それは作画とレイアウトの力でもある。やはりジブリは外せない)

・REDLINE(プロットは弱いが、それでもやっぱり全体のクオリティは凄い)

初心者にオススメのアニメシリーズ

・日常(作画のオーバーワークの連発。作画表現の限界に挑んだ京アニとなりの山田くん的作品)

ワンパンマン(わかりやすく、そして気持ちいい)

モブサイコ100(わかりやすく作画が凄いという事がわかる。ボンズのアニメーターはやっぱり強い)

 

・参考に見ると良いもの

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海外の人たちが「作画」をテーマにディスカッションした動画が現在youtubeに上げられており、凄く勉強になります。正直作画に詳しすぎて海外ガチ勢の凄さにドン引きするぐらい凄いので「sean bires sakuga」で検索してみてください。

Sean Bires sakuga - YouTube

とにかく詳しすぎてこのブログより専門的でわかりやすくまとめられているので、とりあえずこのシリーズの動画さえ見ればだいたい作画に詳しくなれちゃいます。ホントに見て下さい。

 

終わりに

やっぱり作画は難しいですね。「何をもって良い作画とするか」ってのはやっぱり難しいと思います。

 

でも作画がわかると凄く楽しいんですよ。アニメーターの名前を覚えて傾向も把握してるとアクションが激しいシーンで「あっ!あのアニメーターの時間だ!うお~!」みたいな気持ちになるんですよね。

 

アニメーターが変わる事で、世界観がガラッと変わるシーンがあるんですよ。それを知覚できるとアニメの作画は本当に楽しくなる。

 

みなさんにもその楽しさが伝わればなと思い記事を書いてみました。

自分もそこまでマニアかっていうとそこまでの領域じゃないので、間違った変な事言ってたらごめんなさい。

 

ちなみに僕が好きなアニメーターは小池健大平晋也です。アニマトリックスのキッズストーリーと短距離ランナーの作画大好きです。

 

終わり