愛:アムールの評論行きます。
あらすじ:マンションの一室で静かに過ごす老夫婦。しかし妻の方に脳腫瘍が生じてしまい、手術するも失敗。そこから介護を通し、人間の最期を待つ中で老夫婦は「2人だけの世界に入っていく・・・」
まずセットが素晴らしかった。古びた本やレコードが人生の集積として並ぶ本棚はまさに「本物」の一言。この老夫婦がどの様な生活を送ってきたのか痛いほど解ってしまう部屋の作りに感動しました。
キャスティングも素晴らしい。誠実で愛しあう事を止めなかった老夫婦であるという事がすぐに解る。
物語が進行していく程に病気も進行していき「痛み」の描写が悽惨さを増していきます。
これがとても痛々しい、痛々しいなんてもんじゃない。見たくない気持ちにさせられる。我々観客にまで痛みを直接伝えこんでくる。観客はこの老夫婦の「静かな」極限状況を、経験であり体験させられる事になる。
老夫婦を何とかしようとする娘。ルーチンワークの様に介護をこなす介護士。どれだけの極限状態かも知らない隣人。それらの人物がこの老夫婦を止められずに、ある臨界点へと物語は到達します。
この夫が決断した選択に関しては救いと捉える視聴者と過ちと捉える視聴者が完全に2分化されていますね。私は救いだと解釈しています。
そして最期の時が夫にも近づいている。花を丁寧に切り、準備をする夫。そこに妻が現れ「行きましょう」と口にし、彼は同意し部屋の外へ出て行く。
全てが終わりガランとした部屋を歩く娘。「何があったのか・・・?」という表情で部屋の見つめている。
そしてエンドロールへ
以降はちょっと解説と解釈を書いていきます。
[窓は外の世界のメタファー?]
まず映画の最初。警官か検察官の様な男達が部屋をこじ開け調べ回る。そこで重要なセリフ。「お前窓は開けたか?」「開けてない」
だが死んだ妻の部屋の窓は開いている。
夫は妻を外への世界へと開放したのだ。
メイキング映像。2:00からの本編シーンに注目して欲しい。外へ出ようとした妻が開いた窓の前で佇むシーンだ。
だが外に出たいのならば、ドアの前であるのが普通である。
窓とは外の世界のメタファーであり、その側に居ながら出れない妻のジレンマを体現したワンシーンである。
[ハトを窓の外へ逃がしたという手記の記述]
ハネケ映画では「無邪気:イノセント」の象徴として動物が描かれ、それらは登場人物たちの前で無残に殺される。魚は水を失い、豚は殺害され、鳥は十字架に模してハサミで惨殺される。ハネケは無邪気な存在をどう扱うのか?で登場人物の人物像を想像させようとする監督なのだ。
だが、今回は放流の描写はないものの、彼の手記にて[窓の外に逃してやった]という記述をする。
あの動物に対して残酷だったハネケ映画の登場人物の中で唯一この老人は動物を外の世界に開放したのである。
この映画は本当に優しい老人と老婆の究極の愛の物語なのだ。
まとめ
この映画の解釈は自由である。
ハネケ自身、ありとあらゆる解釈を観客個人が責任を持つというスタンスをとても大事にしている監督である。だから「社会問題の映画だ」「介護についての映画だ」と口にしても構わない。
主人公が妻を殺害する事が愛を貫くことではない!
と口にしても良い。老人ホームに送る事の方が「愛」だと考える人間だって大勢いるはずだ。
曖昧な描写も多々ある。ハトを逃がす描写は直接にはないし、彼が嘘をついている可能性もある。そう解釈するのも自由だ。
だが私は彼は嘘をつかず「愛」を貫き通した男だと思う。
彼は最期まで愛を貫いた、痛みの中で愛を貫き通したのだ。
数多くある恋愛映画の中でも異質であり、しかし真実の愛の映画。それがアムールだったのだ。
是非老いる前に。結婚する前に見て欲しい映画である。この映画を見て「愛」について自分の中で考えて欲しい。作品に対して思考して自分の解釈を持つ。それがハネケの望んだ事でもあるから。
愛って何だろうね。
ここまで読んで頂きありがとう御座いました。